志賀・光音寺

【綿神社】

こま犬

綿神社の起源は古く、弥生人渡来の時が起源と言われています。この志賀の街は2000年以上も前に弥生人が住み着いたと言われており、その説が正しいとすると綿神社も2000年以上の歴史があると言えます。綿とは海の仮字として用いられたもので、当時このあたりは海だったのでしょう。一度は荒廃してしまうのですが、戦国時代に現在の志賀公園に屋敷を構えた平手正秀が社殿を再興し、鏡と手彫りの狛犬を奉納したと言われています。

【志賀公園】

志賀公園は平手正秀の家があったところです。ずっと信長の改心を願っていた平手正秀は1553年、諌言を残しここにあった自宅で自殺をしたのでした。それを聞いた信長は馬を飛ばして駆けつけ、枕元で泣いたと言われています。そして信長は改心し、天下統一に向け一歩を踏み出したと言われています。志賀公園はこの由緒ある地を永く保存する目的で1930年に土地区画整理組合によって造成され、1934年に名古屋市へと寄贈されています。志賀公園は平手家があった時代よりずっと昔にも、文字が墨で書かれた習書木簡や、さらに時代を遡り前方後円墳や土器、石器も出土しています。とても歴史と関わりの深い公園といえるでしょう。

【光音寺】

光音寺は光音寺町の町の名前の由来となったお寺です。このお寺は由緒ある有名なお寺で信仰も厚く、この一帯は盛綱村と称していたのですが住民が光音寺の村と呼ぶようになり、鎌倉時代から光音寺村となったそうです。境内の墓地には女義太夫の第一人者、豊竹呂昇が葬られています。光音寺の北側には庄内用水が流れています。庄内用水は北区庄内川の三階橋と中川区の荒子川を結ぶ28kmの水路で、今から400年も前に開削されたと伝えられています。